生きていないと生が見えない
生きていないと生が見えない
2002年5月31日 長井利正
人生本番!すべては今をどう生きるか!どんなタイムリーなことばにいるか!です。
それは、一人でカニの泡のようにグチっていることでもなく、テレビの中のタレントのように、
意味もないおしゃべりをマシンガンのようにブッとばしていることでもありません。
あくまでも人の人生に違いをつくる!どう、生きることが人間としての最高の歓びなのかを伝えつづけるメッセージライフにいる事です。
それは、こうして意図フルなライトメッセージを書くことでもあります。
ことばがいのちの本体であるならば、人として生きることは、いかに人を力づける会話をし、出会い、乗り移っていく会話をし続けるかということです。
あの人は何でああもパワフルなんだろう?
何であんなに新鮮なんだろう?の実体は、そのパワフルで新鮮な会話にあるわけです。
これが、人間として生きていると言うことです。
そこから見ると、いかに生きながら死んでいる人ばかりかが目につきます。
意味もないおしゃべりの明け暮れとは、虫や蛙の鳴き声と変わりありません。
人間は自分が見えない!という名言の真意は、
①自分がことばである事、
②それが、どんなことばであるか、
③それは何を意図したことばであるか
に尽きます。
とくに、ここで強調しているのは、②の人間として今を生きるということが、人が人に働きかけ、互いがパワフルに生かしあっていくという真実生活にいるか、いないかの確認を言うのです。
人生とは、思い出の質量であるといわれますが、それはいやしという現実逃避ではなく、
いかに互いが会話しあうことで進化していくかという真実を共有しあうコンタクトコミュニケーションの質量、
これを生き、生かしあうことを言います。
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