2007年09月15日
話し方=生き方 「進化とは何か?!」
真実は行動するから進化する!
意図、行動、会話の無限軌道
もし人間の生きがいが進化への体感であるなら、同じパターンの繰り返し暮らしは、事実上の退化であると言えます。
人間が生きる上での落とし穴というのは、いやしの壷にはまってしまうことです。
「悪貨は良貨を駆逐する」という諺も一つの解釈として、人間はうっかりすると楽な方に傾いてしまうことへの警告とも取れます。
しかし、端で見ていても爽快だし、リクツ抜きに感動が伝わってくるのは、未知への挑戦的冒険者たちの姿です。
さて、この進化という生き方を構成する要素を、
意図・行動・会話が互いに連動しあって加速させる無限軌道だと言っています。
別の言い方をすれば、先ず意図があって、そこから、ともかく行動する、・・・そこから自然と会話も生まれてくる。
その会話がさらに意図を高め、より行動への加速が生まれ、そのエキサイティングなムードから、よりベターなソフトとしての会話が発生する・・・と言うことになります。
進化しない・・・つまり退化すると言う状況は、意図が空想に流れ、行動は二の次となり、沈黙してしまうという悪循環です。
いずれにせよ、こうした進化のシステムの中核となるのは、どうも行動にあるようです。
犬も歩けば棒に当たるなら、人が動けば知恵が湧くということになりそうです。
真実進化を振り返りますと、
第一は、真実は進化するから真実であり、そこから必然的に意図のエネルギーが上がり、ごく自然に行動すると言う3要素のつながりが明確になって来ます。
自分の正体は、ことばエネルギーであり、
そのエネルギーの意図自体を自覚して行動する時、初めて自分が真実そのものと成って進化を、
歓びを、楽しみ切れると言うことです。
意図、行動、会話の無限軌道
もし人間の生きがいが進化への体感であるなら、同じパターンの繰り返し暮らしは、事実上の退化であると言えます。
人間が生きる上での落とし穴というのは、いやしの壷にはまってしまうことです。
「悪貨は良貨を駆逐する」という諺も一つの解釈として、人間はうっかりすると楽な方に傾いてしまうことへの警告とも取れます。
しかし、端で見ていても爽快だし、リクツ抜きに感動が伝わってくるのは、未知への挑戦的冒険者たちの姿です。
さて、この進化という生き方を構成する要素を、
意図・行動・会話が互いに連動しあって加速させる無限軌道だと言っています。
別の言い方をすれば、先ず意図があって、そこから、ともかく行動する、・・・そこから自然と会話も生まれてくる。
その会話がさらに意図を高め、より行動への加速が生まれ、そのエキサイティングなムードから、よりベターなソフトとしての会話が発生する・・・と言うことになります。
進化しない・・・つまり退化すると言う状況は、意図が空想に流れ、行動は二の次となり、沈黙してしまうという悪循環です。
いずれにせよ、こうした進化のシステムの中核となるのは、どうも行動にあるようです。
犬も歩けば棒に当たるなら、人が動けば知恵が湧くということになりそうです。
真実進化を振り返りますと、
第一は、真実は進化するから真実であり、そこから必然的に意図のエネルギーが上がり、ごく自然に行動すると言う3要素のつながりが明確になって来ます。
自分の正体は、ことばエネルギーであり、
そのエネルギーの意図自体を自覚して行動する時、初めて自分が真実そのものと成って進化を、
歓びを、楽しみ切れると言うことです。
2007年09月09日
話し方=生き方 「話し合いが出会い!」
会話暮らしのすばらしい日記帳
話しあうことが出会うこと!の真満足度
2005年8月1日 No.2 長井利正
人間が一番求めているのは話し相手であり、一番安らぎを感じるのは、そういうパートナーと、しみじみ話しあっている時かも知れません。
幸福とは?といくら定義したところで具体的には、話の合う相手とうちとけて話しあうことを可能とする条件づくりに過ぎません。
自分に対する不誠実から「我々」に居られなくなった人が世間の中で一番ショックを受けるのは話が通じないことであり、話しあうことが出来ないという事実との遭遇です。
それは、話の通じない国で迷子になったかのような恐ろしさに似ているでしょう。
まして、相手の一方的な良い悪いのワクから処罰されたようなフォースの世界であったら絶望感に落ち込みます。
ただし、会話の源泉は、あくまで自分の会話体なのですから、
自分のエネルギーが高く、会話のボキャブラリーが豊かであり、
真実が根本にあれば、こうした恐れもファンタジーの範囲になってしまうかも知れません。
私はそうしたユトリを創り出すようになれたお陰か、道すがら、フト菓子屋に立ち寄って、お茶をいただきながら小庭の草木と話をして一刻を楽しむことがあります。
貴重な日々を、何かに追われてイライラ過ごすのも、チョッとしたヒマをみつけて、くつろぐのも人生会話への態度次第のような気がします。
最近では、初恋の恋文気分で、関わり先へのレポートや提案書を差し上げることが多いのですが、こうした文書も書いている時は、相手が目の前にいて互いに話しあっているように進みます。
意図さえ満ちていれば、どこでも、いつでも、人生は夢の国のように楽しみ多い日々になります。
「話しあうことが出会うこと」この生き方のすばらしさを、もっともっとお伝えしたいものです。
話しあうことが出会うこと!の真満足度
2005年8月1日 No.2 長井利正
人間が一番求めているのは話し相手であり、一番安らぎを感じるのは、そういうパートナーと、しみじみ話しあっている時かも知れません。
幸福とは?といくら定義したところで具体的には、話の合う相手とうちとけて話しあうことを可能とする条件づくりに過ぎません。
自分に対する不誠実から「我々」に居られなくなった人が世間の中で一番ショックを受けるのは話が通じないことであり、話しあうことが出来ないという事実との遭遇です。
それは、話の通じない国で迷子になったかのような恐ろしさに似ているでしょう。
まして、相手の一方的な良い悪いのワクから処罰されたようなフォースの世界であったら絶望感に落ち込みます。
ただし、会話の源泉は、あくまで自分の会話体なのですから、
自分のエネルギーが高く、会話のボキャブラリーが豊かであり、
真実が根本にあれば、こうした恐れもファンタジーの範囲になってしまうかも知れません。
私はそうしたユトリを創り出すようになれたお陰か、道すがら、フト菓子屋に立ち寄って、お茶をいただきながら小庭の草木と話をして一刻を楽しむことがあります。
貴重な日々を、何かに追われてイライラ過ごすのも、チョッとしたヒマをみつけて、くつろぐのも人生会話への態度次第のような気がします。
最近では、初恋の恋文気分で、関わり先へのレポートや提案書を差し上げることが多いのですが、こうした文書も書いている時は、相手が目の前にいて互いに話しあっているように進みます。
意図さえ満ちていれば、どこでも、いつでも、人生は夢の国のように楽しみ多い日々になります。
「話しあうことが出会うこと」この生き方のすばらしさを、もっともっとお伝えしたいものです。
2007年09月08日
話し方=生き方 「顔つきに人生が!! 」
会話を科学する日々のノート
“すべては会話”という真実眼の悟り
2005年8月1日 長井利正
人間にとって一番気になることは、自分の顔つきであります。
人相と言うことばに表現されるように、メイクをしようと、サングラスをかけようと、イザと言う時に現われ、類は友まで呼んでしまう不思議なパワーは、顔に結晶します。
それでも若いうちは、若さと言うパワーで何とかカバーしたり、
何かの拍子にツキが回ったような頃は、
酔っ払いがワメいているようにゴマかしが効くように見えますが、
人生が山を越えて、自分の未来にまともな夢一つ見られなくなると、
人の顔は引きつったように貧相になります。
これは年令どころの騒ぎではありません。
日常生活の中でもコミットを失ったり自己誠実に欠けると、
別人のように相が落ちてしまうことは、我々の間では常識化されています。
ひと昔前、私はプログラムの中で、よく人生の氷山図を示し、
人生の四要素、①経済、②健康、③人間関係、④会話のエネルギーが、
この順序で相関していることを力説しました。
このことは、今でも決して訂正するものではありません。
もし、私自身が進化したと言うところから言い足すなら、次のようになります。
第一は、この人生の四要素は確かに関連しあっていると同時に、どの面を取り上げても、すべては、自分自身の会話体(内話システム)を日々、どれだけ新陳代謝させているかによって、その実相としての現象にも違いが如実に現れること。
第二は、あえて言うなら、そうした現象面はあまり取るに足らないものであって、一番肝心なのは自分の相に責任を持つことであると言う事実です。
何故なら自分である会話体が進化し続けていることが人として生きるテーマそのものだからです。
自分が表面的な世界の帝王にでもなることが人生の目的ならイザ知らず、
日々、時々刻々、どう言動したかがすべてのすべてであるからです。
“すべては会話”という真実眼の悟り
2005年8月1日 長井利正
人間にとって一番気になることは、自分の顔つきであります。
人相と言うことばに表現されるように、メイクをしようと、サングラスをかけようと、イザと言う時に現われ、類は友まで呼んでしまう不思議なパワーは、顔に結晶します。
それでも若いうちは、若さと言うパワーで何とかカバーしたり、
何かの拍子にツキが回ったような頃は、
酔っ払いがワメいているようにゴマかしが効くように見えますが、
人生が山を越えて、自分の未来にまともな夢一つ見られなくなると、
人の顔は引きつったように貧相になります。
これは年令どころの騒ぎではありません。
日常生活の中でもコミットを失ったり自己誠実に欠けると、
別人のように相が落ちてしまうことは、我々の間では常識化されています。
ひと昔前、私はプログラムの中で、よく人生の氷山図を示し、
人生の四要素、①経済、②健康、③人間関係、④会話のエネルギーが、
この順序で相関していることを力説しました。
このことは、今でも決して訂正するものではありません。
もし、私自身が進化したと言うところから言い足すなら、次のようになります。
第一は、この人生の四要素は確かに関連しあっていると同時に、どの面を取り上げても、すべては、自分自身の会話体(内話システム)を日々、どれだけ新陳代謝させているかによって、その実相としての現象にも違いが如実に現れること。
第二は、あえて言うなら、そうした現象面はあまり取るに足らないものであって、一番肝心なのは自分の相に責任を持つことであると言う事実です。
何故なら自分である会話体が進化し続けていることが人として生きるテーマそのものだからです。
自分が表面的な世界の帝王にでもなることが人生の目的ならイザ知らず、
日々、時々刻々、どう言動したかがすべてのすべてであるからです。
2007年09月04日
人材教育の極意 コミュニケーション講座 「コーチ」
自己成長のステップを求める
1.コーチを求めコーチに従う
2005年7月1日 長井利正
会話体である人間にとって、自分が成長し進化の手ごたえを感じる・・・これほど確かな生きがいはないと思います。
とくに直感的に自分より何らかの点で優れている・・・何かエネルギー感を感じる人物との遭遇は、貴重な人生のチャンスであります。
今日の私があるのは、こうした体験を積み重ねて来た賜物です。
そういう優れモノとの出会いは、人生の転機にすらなりやすいものです。
そしてこのチャンスをモノにするには、
間髪を入れず、モノを言うこと、
必ず自分から勇気を出してぶつかっていくしかありません。
勿論、こう言っても、必ずしも、すべてのチャンスがつかめることはありません。
あれほど、恋焦がれた人なのに、とうとう出会えなかった空しい思い出も沢山あります。
そして、それも必然であり、それでよかったと振り返ってみて納得することもいっぱいあります。
こうした優れたコーチとの遭遇は「本」という会話体にも当てはまります。
時間、空間を越え、自分の読み方、感じ方次第で、
すごいエネルギーが入力され、それが他にも影響を及ぼすことはザラにあります。
自分の気分次第、自分のやり方絶対で日々を過ごすことが、
我欲の人生であり、
こうした自ら、道を求め、師を探し、生き方に違いをつくることが我々として生かしあうことです。
自分を振り返ってみて、3年前、5年前、そして10年前の会話体が、自分でもあきれるほど違っているのを実感する時、
いかにコーチを求め、コーチを受けることが大事かを思い知ることが大きいのです。
こう書いてくると、何かコーチとは特別に秀でた人物でなければならないかのように思われるかも知れませんが、
人間がオールマイティでない以上、一つの面についての優れ者であってもコーチと呼べます。
そういう謙虚さを持って互いがコーチを求め、
コーチしあうことが巨大な人類という会話体にコンタクトしあう
「平和エネルギー体」への歩みではないでしょうか?
1.コーチを求めコーチに従う
2005年7月1日 長井利正
会話体である人間にとって、自分が成長し進化の手ごたえを感じる・・・これほど確かな生きがいはないと思います。
とくに直感的に自分より何らかの点で優れている・・・何かエネルギー感を感じる人物との遭遇は、貴重な人生のチャンスであります。
今日の私があるのは、こうした体験を積み重ねて来た賜物です。
そういう優れモノとの出会いは、人生の転機にすらなりやすいものです。
そしてこのチャンスをモノにするには、
間髪を入れず、モノを言うこと、
必ず自分から勇気を出してぶつかっていくしかありません。
勿論、こう言っても、必ずしも、すべてのチャンスがつかめることはありません。
あれほど、恋焦がれた人なのに、とうとう出会えなかった空しい思い出も沢山あります。
そして、それも必然であり、それでよかったと振り返ってみて納得することもいっぱいあります。
こうした優れたコーチとの遭遇は「本」という会話体にも当てはまります。
時間、空間を越え、自分の読み方、感じ方次第で、
すごいエネルギーが入力され、それが他にも影響を及ぼすことはザラにあります。
自分の気分次第、自分のやり方絶対で日々を過ごすことが、
我欲の人生であり、
こうした自ら、道を求め、師を探し、生き方に違いをつくることが我々として生かしあうことです。
自分を振り返ってみて、3年前、5年前、そして10年前の会話体が、自分でもあきれるほど違っているのを実感する時、
いかにコーチを求め、コーチを受けることが大事かを思い知ることが大きいのです。
こう書いてくると、何かコーチとは特別に秀でた人物でなければならないかのように思われるかも知れませんが、
人間がオールマイティでない以上、一つの面についての優れ者であってもコーチと呼べます。
そういう謙虚さを持って互いがコーチを求め、
コーチしあうことが巨大な人類という会話体にコンタクトしあう
「平和エネルギー体」への歩みではないでしょうか?
2007年08月27日
話し方=生き方 「人の弱味につけ込まない」
〈人間の大罪をふりかえる〉
その二 人の弱みにつけ込まない。
2005年6月1日 長井利正
慈悲ということばの「慈」が人への思いやりであるのに対し、「悲」は同じ思いやりでも、人に迷惑をかけない、人を困らせない心を言います。
現代人の退化現象は慈悲心の欠如であります。
利潤追求が企業社会の大原則である以上、人々は仲間への思いやりを失う表面的サービスに終始するだけでなく、欲望のためなら人が困ることにも手段を選びません。
教育というのは、こうして人間の根本的生き方へのコーチでないでしょうか?
受験エリートの養成や、学者的知性のエスカレート、
あくまでも自己の利益達成のための能力開発、あるいは、享楽の追及や、
情感への心酔、マネーゲームチャンピオンづくりのためであるとしたら、
人類の明日は絶望的破滅あるのみです。
最近、戦争犯罪の見直しが叫ばれ、勝利のためなら一般人の大量殺戮(さつりく)が、公然に行われた歴史がクローズアップされています。
具体的には、太平洋戦争で、米国が行った日本の代表都市の焼夷弾爆撃による民間人の数百万人の殺傷等です。
転じて、最近の殺人事件の若年化があります。子供たちの自分本位の感情が、自由の名の下にエスカレートした結果です。
身心共の弱者に対して、我欲が兇器として暴走し、それを助長するような情報の氾濫が新しい犯罪を生み続けます。
こうした傾向を止めるマスターキーは、 同じ目線での話しあい以外にありません。
国連といい、国際赤十字と言っても、その根本は思いやりからの話しあい行動です。
慈悲の心を失った人間の大罪を救うには、より大きく、深く、強い大慈悲心しかありません。
見れば見るほど犯罪者とはそう生きざるを得なかったあわれな人々なのです。
それが我が子なら・・・というところから、改めて、自己成長会話進化への自覚が始まります。
その二 人の弱みにつけ込まない。
2005年6月1日 長井利正
慈悲ということばの「慈」が人への思いやりであるのに対し、「悲」は同じ思いやりでも、人に迷惑をかけない、人を困らせない心を言います。
現代人の退化現象は慈悲心の欠如であります。
利潤追求が企業社会の大原則である以上、人々は仲間への思いやりを失う表面的サービスに終始するだけでなく、欲望のためなら人が困ることにも手段を選びません。
教育というのは、こうして人間の根本的生き方へのコーチでないでしょうか?
受験エリートの養成や、学者的知性のエスカレート、
あくまでも自己の利益達成のための能力開発、あるいは、享楽の追及や、
情感への心酔、マネーゲームチャンピオンづくりのためであるとしたら、
人類の明日は絶望的破滅あるのみです。
最近、戦争犯罪の見直しが叫ばれ、勝利のためなら一般人の大量殺戮(さつりく)が、公然に行われた歴史がクローズアップされています。
具体的には、太平洋戦争で、米国が行った日本の代表都市の焼夷弾爆撃による民間人の数百万人の殺傷等です。
転じて、最近の殺人事件の若年化があります。子供たちの自分本位の感情が、自由の名の下にエスカレートした結果です。
身心共の弱者に対して、我欲が兇器として暴走し、それを助長するような情報の氾濫が新しい犯罪を生み続けます。
こうした傾向を止めるマスターキーは、 同じ目線での話しあい以外にありません。
国連といい、国際赤十字と言っても、その根本は思いやりからの話しあい行動です。
慈悲の心を失った人間の大罪を救うには、より大きく、深く、強い大慈悲心しかありません。
見れば見るほど犯罪者とはそう生きざるを得なかったあわれな人々なのです。
それが我が子なら・・・というところから、改めて、自己成長会話進化への自覚が始まります。
2007年08月27日
話し方=生き方 「嘘つきぐせ」
〈人間の大罪を見つめる〉
その一 嘘つきぐせが墓穴を掘る
2005年6月1日 長井利正
嘘も方便(ウソは処生方である)ということばがあります。
嘘つきは泥棒の始まり(ウソは人に迷惑を与える悪業である)ということばもあります。
一体ウソなる会話の実体は何なのでしょう。
世間のモノサシの第一は、良い悪いです。
ところが、このモノサシはT.P.O.で計り方が変わってしまうのです。
大人にとっては良いことでも、子供では悪いことになります、自分ならOKでも、人がそれをやるとNOになる反応は、いっぱいあります。
こうしたT.P.O.という区別から見ると、
嘘が一番害を与えるのは自分です。
自分が信じられなくなる不誠実のモノサシになるのです。
ことばを何より大事にあつかう会話科学からみると、
ことばを粗末にあつかうこととなり、
人生に結果を出す可能を打ち消していくことにつながるのです。
ひとくちに権謀策術(目的達成のためなら嘘かけひきは必要悪である)という世渡り上手な生き方が現代には当然のことのように思われていますが、
こうして自分勝手な嘘つき処世術が、結果的に人間共通の不信感という心の国境をつくってしまいます。
司馬遼太郎氏の出世作「ふくろうの城」に、
乱世に生きる忍者たちの人間観を見事に画いています。
自分の師と仰ぐ人物、自分の主人とする人物が、我欲で変心し知らぬ間に敵に回る弱肉強食の環境の中で自分が自分に誠実なコミットを持って生きてゆく姿をドラマ化したものです。
そしてセルフコミットに生きる自分自体が、自分の我欲と対決していく行き方は壮絶なものです。
だからこそ、自分が自分のことばである事実を見抜き、
人が人ととことん話しあい、我々となって互いを生かしあい、
ゆるがぬ平和を創り出す日々の生き方が問われる時であります。
その一 嘘つきぐせが墓穴を掘る
2005年6月1日 長井利正
嘘も方便(ウソは処生方である)ということばがあります。
嘘つきは泥棒の始まり(ウソは人に迷惑を与える悪業である)ということばもあります。
一体ウソなる会話の実体は何なのでしょう。
世間のモノサシの第一は、良い悪いです。
ところが、このモノサシはT.P.O.で計り方が変わってしまうのです。
大人にとっては良いことでも、子供では悪いことになります、自分ならOKでも、人がそれをやるとNOになる反応は、いっぱいあります。
こうしたT.P.O.という区別から見ると、
嘘が一番害を与えるのは自分です。
自分が信じられなくなる不誠実のモノサシになるのです。
ことばを何より大事にあつかう会話科学からみると、
ことばを粗末にあつかうこととなり、
人生に結果を出す可能を打ち消していくことにつながるのです。
ひとくちに権謀策術(目的達成のためなら嘘かけひきは必要悪である)という世渡り上手な生き方が現代には当然のことのように思われていますが、
こうして自分勝手な嘘つき処世術が、結果的に人間共通の不信感という心の国境をつくってしまいます。
司馬遼太郎氏の出世作「ふくろうの城」に、
乱世に生きる忍者たちの人間観を見事に画いています。
自分の師と仰ぐ人物、自分の主人とする人物が、我欲で変心し知らぬ間に敵に回る弱肉強食の環境の中で自分が自分に誠実なコミットを持って生きてゆく姿をドラマ化したものです。
そしてセルフコミットに生きる自分自体が、自分の我欲と対決していく行き方は壮絶なものです。
だからこそ、自分が自分のことばである事実を見抜き、
人が人ととことん話しあい、我々となって互いを生かしあい、
ゆるがぬ平和を創り出す日々の生き方が問われる時であります。
2007年08月26日
人間関係の探求 「友達という環境の世界」
2005円5月15日 長井利正
人生とは、人との関わり。
その人をめぐる人間関係の別名。
中味は「会話の環境」であります。
故宇野千代さんは「思い出の数」と定義しましたが、私は、もう少し正確に「会話の質量」と申し上げます。
世間的な親のことばで言えば、わが子にとって大切なのは「良い友達」であって、それは「よく勉強をしあう仲間」となります。
しかし、この友達なる会話環境を、親の理想から規制し、管理することが、本当に子供の為であるのか・・という疑問を探求してみたいと思います。
確かに基本的学習環境をベースとした、集中力・持続力・事実に対する観察や判断力と言った社会生活上の能力をつける時期として10代のシツケは規則や管理が常識化しています。
そしてエスカレートしています。
こうした管理化社会、規制化、体制化社会の加速化の中で、反面、ファッション、生活スタイル、感性感覚社会も反動的に拡がっています。
テレビ、アニメ、ビデオ、CD、eメール、インターネットの氾濫は、子供たちの世界に侵入し、携帯電話も小学生にまで普及をして来ました。
この結果、あたかも国家主義社会でどれほど情報規制をはかっても、自由化への開放が時間の問題であったように、これからの社会構造は予想を越えた自由化が現れるのではないかと推定されます。
どうもこうした傾向から言うと、
子供がどんな友だちを得るか、どれほど自由化(勿論、低い次元を含めて)へ向って反抗的言動をするかは、
もう一段スケールアップしたところから一緒にいてあげることが大事なような気がするのです。
そしてそれだけに親たち自身の進化、成長が問われる時代に入って来たのではないかと感じるのです。
新しい時代への世界観と、幅のある会話力が必要な時ではないでしょうか?
人生とは、人との関わり。
その人をめぐる人間関係の別名。
中味は「会話の環境」であります。
故宇野千代さんは「思い出の数」と定義しましたが、私は、もう少し正確に「会話の質量」と申し上げます。
世間的な親のことばで言えば、わが子にとって大切なのは「良い友達」であって、それは「よく勉強をしあう仲間」となります。
しかし、この友達なる会話環境を、親の理想から規制し、管理することが、本当に子供の為であるのか・・という疑問を探求してみたいと思います。
確かに基本的学習環境をベースとした、集中力・持続力・事実に対する観察や判断力と言った社会生活上の能力をつける時期として10代のシツケは規則や管理が常識化しています。
そしてエスカレートしています。
こうした管理化社会、規制化、体制化社会の加速化の中で、反面、ファッション、生活スタイル、感性感覚社会も反動的に拡がっています。
テレビ、アニメ、ビデオ、CD、eメール、インターネットの氾濫は、子供たちの世界に侵入し、携帯電話も小学生にまで普及をして来ました。
この結果、あたかも国家主義社会でどれほど情報規制をはかっても、自由化への開放が時間の問題であったように、これからの社会構造は予想を越えた自由化が現れるのではないかと推定されます。
どうもこうした傾向から言うと、
子供がどんな友だちを得るか、どれほど自由化(勿論、低い次元を含めて)へ向って反抗的言動をするかは、
もう一段スケールアップしたところから一緒にいてあげることが大事なような気がするのです。
そしてそれだけに親たち自身の進化、成長が問われる時代に入って来たのではないかと感じるのです。
新しい時代への世界観と、幅のある会話力が必要な時ではないでしょうか?
2007年08月25日
人間関係の探求「親の理想と子供の自由の闘争」
2005円5月15日 長井利正
血は水より濃いとか、跡継ぎはわが子へとか、事実を知れば、思い込みと迷信の会話が堂々と罷り通っています。
もし自分が子供の時をふり返って、親から様々は規則をうけ、
否応なしに親の言いなりの道を歩ませられたら、どれ位、苦しく、窮屈であったかを思った時、
同じことを我が子に自動的に行おうとすることの野蛮さにゾッとするかも知れません。
このパターン化され勝ちな人間ドラマの脚本を、私自身が踏襲しようとしていました。
自分が大学へ行かれなかったから、わが子にだけは、それをしてあげようとか、
自分の人生をかけて得た人生のコツを何とかして、わが子に手渡したいとか、という具合でした。
ところが、この架空の構想は、見事にくずれ落ちました。
或いは、その逆に、自分でも気付かなかった自分の人生プログラムが世間的な理想論をぶち破ったとも言えるかも知れません。
或いは、もっと別の見方をすれば、私の父の遺訓の一つに
「馬を水飲み場に連れていくことは出来ても馬がその気にならねば水は飲まない」
がありますが
「いかに方法論的コーチをしても、結局は深い強い意図が暗示を与えていない限り、人は行動しない」
と言うことでしょう。
現代風俗の混乱は却ってないことです。
それだけに、子供たちはそう言った、浅い風潮にかぶれやすいし、親たちの常識と相克しあう時代です。
それでも、過去の伝説に固執する親たちは、学習を強制し、うちの子だけは、と学生的エリートコースを絶対視します。
確かに学者を必要とする社会ではヒューマンコンピュータとしての職場は保証されます。
しかし、彼等が人格的破綻を起こしたり、人生的放浪者と化していく未来に対して、
どこ迄、親たちは責任をとれるでしょうか。
ここに現代の親子の対立と戦いの原点が発生します。
血は水より濃いとか、跡継ぎはわが子へとか、事実を知れば、思い込みと迷信の会話が堂々と罷り通っています。
もし自分が子供の時をふり返って、親から様々は規則をうけ、
否応なしに親の言いなりの道を歩ませられたら、どれ位、苦しく、窮屈であったかを思った時、
同じことを我が子に自動的に行おうとすることの野蛮さにゾッとするかも知れません。
このパターン化され勝ちな人間ドラマの脚本を、私自身が踏襲しようとしていました。
自分が大学へ行かれなかったから、わが子にだけは、それをしてあげようとか、
自分の人生をかけて得た人生のコツを何とかして、わが子に手渡したいとか、という具合でした。
ところが、この架空の構想は、見事にくずれ落ちました。
或いは、その逆に、自分でも気付かなかった自分の人生プログラムが世間的な理想論をぶち破ったとも言えるかも知れません。
或いは、もっと別の見方をすれば、私の父の遺訓の一つに
「馬を水飲み場に連れていくことは出来ても馬がその気にならねば水は飲まない」
がありますが
「いかに方法論的コーチをしても、結局は深い強い意図が暗示を与えていない限り、人は行動しない」
と言うことでしょう。
現代風俗の混乱は却ってないことです。
それだけに、子供たちはそう言った、浅い風潮にかぶれやすいし、親たちの常識と相克しあう時代です。
それでも、過去の伝説に固執する親たちは、学習を強制し、うちの子だけは、と学生的エリートコースを絶対視します。
確かに学者を必要とする社会ではヒューマンコンピュータとしての職場は保証されます。
しかし、彼等が人格的破綻を起こしたり、人生的放浪者と化していく未来に対して、
どこ迄、親たちは責任をとれるでしょうか。
ここに現代の親子の対立と戦いの原点が発生します。